富士吉田市は山梨県にあります。
現在も、なぜ富士吉田市内の中心に大正・昭和初期の
昭和レトロポップな建物が現存しているのかというと、
第2次世界大戦中、富士山方向に中島飛行機分工場”武蔵航空”が
あり爆撃されて、吉田高校も被害を受けたのですが、
下吉田地区は幸い爆撃の被害には合わないですんだので、
残っているそうです。
≪「昭和レトロポップ」ブーム 郷愁誘う時代への憧れ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070919-00000937-san-ent≫
昭和24年頃ガチャ万時代といわれた時代がやってきました。
その頃は、第2次戦後の統制がはずれて自由経済になり、
全国的に戦災で焼かれ衣料品もたいへん少ない時代でした。
織機を回し、織れば織るほどお金になって、
糸を運んでも金になり、さらに製品を持っていけば倍にも
なったのが富士吉田市の昭和24年頃です。
忍野・河口湖方面から女工さんを雇い、家で糸を染色し、朝
暗いうちから織りはじめて夜遅くまで、織機の音を止める事が
ないくらい富士吉田市の人々は、働きました。
そんな富士吉田市の通称”西裏通り”といわれる通りには、
かつては、たくさんの飲み屋や料理屋が軒を連ねて芸姑衆が行き交い、
多い時でなんと600人を超える女性がいたそうです。
休みの時などは、近在の女工さん達も出掛けて、
西裏通りは肩が触れ合う程の人で溢れていたそうです。
昭和30年頃の富士吉田市は、人口5万人の町に映画館が5軒あって、
人口密度から云うと日本一だったかも知れないといわれる
くらいの飲み屋の数を誇っていました。
飲み屋へ行けば機屋のお父さんは、サラリーマンよりモテた時代でした。
当時は、機屋さんイコール小金持ちで、飲み屋のお姉さんの目は、
機屋さんがテーブルの前に座り、グラスを持っただけでが輝きました。
なぜなら、染色に使う染料で手の指紋やシワが黒く染まっているので、
指を見れば仕事が判ったのです。
糸や織機を預ければ、銀行も倉庫を持っていて
かんたんにドンドン金を貸してくれました。
ある時、料亭の玄関での帰りがけに停電があり、
暗いので、自分の靴を探すのに1万円札を燃やして探したという
成金もいたそうです。
富士吉田市は、例えば、看板のフォントや建物など、
昭和30年頃の昭和レトロポップな雰囲気を
たっぷり味あわせてくれる町なので、行ってみるとおもしろいと
思いますよ。




